秋季彼岸会兼永代祠堂経法要(2009)
(*写真は本堂にお集まりの方々を写しました風景です。)
去る9月23日、秋期彼岸会兼永代祠堂経法要を催しました。
お経を頂いた後、お集まりの皆さん方とご一緒にお勤めさせて頂きました。
(*写真は講師の脇山さんです。)
脇山展彦氏をお招き致しまして、お話を頂戴致しました。
お話と致しましては、「聞く」という事を中心テーマとして、お話が御座いました。
この「聞く」とは、これは仏の教えを自らが聞いていくという意味において、「聞く」なのであります。
「如是我聞」、「我聞如是」という形でお経は始まりますが、あれは、仏の教え、つまり、仏陀釈尊の教えを常に傍で聞いていた阿難尊者が、釈尊があんな場所で誰々に向かってこんな様に仰っておられたのを私は聞いておりましたというものです。
だから、「如是我聞」、「我聞如是」という形で始まる訳です。
そこからも分かる様に、仏の教えを聞いていた事がまずあって、そこから始まる訳です。
また、釈尊も同様に、仏の教えを聞いている自分がまずあって、それから阿難を含むんだ多くの人間に向かって法を説いているんですね。
従って、仏の教えを聞いていくという事が核に来ないと、何もかにもが成立しない訳です。
誰某の話を、ただ「聞く」という事では無いという訳ですね。
つまり言えば、仏の教えを抜きにして、誰某の話を「聞く」というのでは、それでは片手落ちでしかないと思います。
というのも、自身の中に仏の教えを「聞く」事がまず中心に据えてありませんと、誰某の話を聞いたとしても、その内実における苦悩というのが見えて来ないのではないでしょうか。
苦悩が見えないのに、「聞く」という事も、そして、聞いて「応える」という事も成立しないと思います。
だから、「聞く」、仏の教えを、まず自分自身が聞いていくんだというのが、何よりも大事なんでしょう。
仏の教えを聞いた上で、自分の周り、それこそ生活であったり、人間関係であったりという事ですが、それを見渡せば、如何に自分が自身の思い計らいで、言葉を変えれば自分の都合のみで生きておったかが、そして、その事によって如何に様々な苦しみを引き起こしていたのかが見えてくるという事なのではないでしょうか。
だから、私たちにとりまして、仏様の教えを「聞く」という事は、私たちが自分自身を知るため、生きながら地獄を作り出していたのは自分であったんだという事を知るために、大事な事ではないでしょうか。
その上で、「お彼岸」というのは、詳細を言えば中国的な風俗がかなり混じったものではありますが、逆にその機会がある事によって、我々自身が仏の教えを請える縁を戴いている訳ですから、単なる季節的な慣行行事として済まそうとせず、大事に迎えるという事が必要では無いでしょうか。
また、その事自身も、私たちに問われている事かと思います。
そういった事を、脇山さんのご法話で考えさせて戴きました次第です。
脇山さん、貴重なお話、どうもありがとう御座いました。
そして、秋季彼岸会兼永代祠堂経法要に参加なさって下さいました方々にも、この場を借りまして、感謝申し上げます。
(追記)
浄真寺では、お彼岸等々の年中行事の後、お斎(懇親会)の時間を設けております。
(*写真は法要後のお斎の風景です。)
食事を戴きながら、日頃の生活における疑問や問題点などを互いに聞き、話し合っております。
こういう場ですと、堅苦しくなく、遠慮なく、互いに自由に交流する事が出来ますので良いですね。
また、お酒も入りますので、一層、話が盛り上がっておりました。
まぁ、この様な形で、浄真寺では法要が勤められております。
ご覧の方は、浄真寺まで、どうぞお気軽にお越し下さい。
お待ちしております。
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さて、来月からは盂蘭盆会・彼岸会と、お寺で年中法要があった関係で2ヶ月間休止となっておりました聖典を読む会・浄真寺定例法話会が通常通りに勤まりますので、どうぞお気軽にお越し下さい。
さて、来月からは盂蘭盆会・彼岸会と、お寺で年中法要があった関係で2ヶ月間休止となっておりました聖典を読む会・浄真寺定例法話会が通常通りに勤まりますので、どうぞお気軽にお越し下さい。
また、来月の浄真寺定例法話会のご案内をさせて頂きます。
どうぞご利用下さい。
どうぞ皆様、友人知人をお誘い合わせの上、ご参詣ご聴聞下さい。