宗祖親鸞聖人報恩講(2009)
(*どの様に荘厳していくか相談している様子です)
お集まりの皆さん方で、お寺の玄関や本堂を荘厳した後、お勤めを致しました。
次いで、住職の前田義朗、並びに衆徒の瀧澤福壽が感話をしました。
報恩講の逮夜にちなみ、自身における信心を確かめていく話になったかと思います。
(*逮夜法要後のお斎の風景です)
そのまま、お斎(夕食)に移りつつ、座談をしながら、自分自身の事や色んな問題について話し合いました。
(*お勤め後の住職感話の風景です)
続いて住職が挨拶程度に感話を致しました。
そして、お集まりの皆さん方で、お斎(昼食)を頂いた後、そのまま日中法要となりました。
また今回は、昨年と引き続きまして、東京宗務出張所所員(北上市通来寺副住職)である、清谷真澄氏をお招き致しまして、お話を頂戴致しました。
お話と致しましては、「名」というものをテーマとして、お話が御座いました。
名を奪われる・・・つまり言えば、名とは、自身の存在意義そのものでありますが、それを奪われるという事は、その立脚地を奪われるという事につながってしまうんだとの事です。
彼らは、名を奪われる事で、自らの拠り所を失ってしまいました。
拠り所、つまり、自身というものを形成する文化、環境が失われてしまって、どうする事も出来なくなってしまうという事でしょう。
それが名を奪われるという事です。
これは日本だけの話ではなく、以前、西欧列強の支配の下にあった被支配国においても、支配国風の名前が、被支配国とされていた住民についている時があります。
例えば、フィリピンは、国名自体を見ても分かる様に、元々の名ではありませんね。
時のスペイン王、フィリップの地=フィリピン、という意味があります。
この様に、名前を奪われるという事は、存在意義や主体性が無くなってしまう事を意味するのでしょう。
余談ですが、奪われるという事だけでなく、日本の古代社会においては、逆に名によって、所属地や職業によって、生活を縛られるという事もありました。
名とは、一見、何でもない様に見えて、全くそうではないという事を表しておるのでしょう。
話は変わりまして、浄土真宗においても、名は大切なものです。
法名を頂き、そして、名乗るという事が重要視されております。
それだけでなく、法名の名乗りという事は、上述した事例の様に、何かによって奪われたり、縛られたりしてしまう名ではありません。
何かによって左右されてしまうものではない名として、そして、左右されない世界に生きる証として、法名を名乗るという事でしょう。
また逆に言えば、何かに奪われ、縛られ、苦しめられる世を生きている我々であったという事実を、法名の名乗りを通して、見させて頂くという事でもあるでしょう。
そういった事を、今回の報恩講を通して、清谷さんから教えて頂きました。
清谷さん、貴重なお話、どうもありがとう御座いました。
(追記)
浄真寺では、年中行事の後、お斎(懇親会)の場を設けております。
(*日中法要後のお斎の風景です)
食事を戴きながら、日頃の生活における疑問や問題点などを互いに聞き、話し合っております。
こういう場ですと、堅苦しくなく、遠慮なく、互いに自由に交流する事が出来ますので良いですね。
また、お酒も入りますので、一層、話が盛り上がっておりました。
まぁ、この様な形で、浄真寺では法要が勤められております。
ご覧の方は、浄真寺まで、どうぞお気軽にお越し下さい。
お待ちしております。
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変わりまして、お寺の行事のご案内をさせて頂きます。
変わりまして、お寺の行事のご案内をさせて頂きます。
日程をご確認の上、どうぞ、ご了承下さい。
また、今月末に催します、浄真寺門徒望年会のご案内をさせて頂きます。
また、申込期限は12月23日まで、となっておりますので、よろしくお願い致します。
どうぞ皆様、友人知人をお誘い合わせの上、ご参詣ご聴聞下さい。