真宗大谷派(東) 浄真寺

千葉県柏市南逆井にある真宗大谷派(東)浄真寺のブログです。

十一月のおみがき会&定例法話会(2009)

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(*法話中の風景①です)

去る11月27日、おみがき会&浄真寺定例法話を催しました。

おみがき会は、仏具のおみがきや本堂のお掃除をする会です。

おみがきやお掃除は、単に、ご縁のあるお寺を綺麗にしようというだけでなく、自分にとっての聞法道場であるこの場を大事

にしていこうという意味も御座います。

そういう形でおみがき会がなされております。

おみがき会の後は、待ちに待った昼食会です。

浄真寺では、年3回のおみがき会の後の昼食は、カレーライスです。

おみがきやお掃除は、かなり体力を使いまして、とてもお腹がすきますので、そんな時はカレーが一番ですね。

疲れた身体をカレーが癒してくれました。

ごちそうさまでした。

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(*法話中の風景②です)

今回の法話会は、当寺院の住職を務めさせて頂いております、前田義朗がお話させて頂きました。

お話と致しましては、「仏説無量寿経」の「唯除の文」と私たちについてお話しさせて頂きました。

「たとい我、佛を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。
もし、生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と誹謗正法せんをば除く。」

という、「仏説無量寿経」の「第十八願文」があります。

その願文の終わりに、「唯五逆と誹謗正法せんをば除く。」という文がありますが、この文と私たちがどう関係してくるかに

ついてお話し致しました。

私たちは、ある問題が目の前に生じた際、それに対して何かしらの行動を起こします。

仮に、その問題を解決するという方向に自分が動いたとしましょう。

問題を解決するために、あちこち奔走したり、精一杯努力したりと、ありとあらゆる事をするかと思います。

ここからが本題ですが、そういう形で動いていた自分、それは果たして、本当に問題を解決するために動いていた自分

なのだろうかという事が、今回のお話のポイントです。

よくよく考えたら、本当に問題を解決するために自分が動いていたのではなくて、寧ろ、問題を解決するんだと取り組んでいる

自分に社会的評価が与えられるために、自分が動いていたのではないだろうか、つまりは、自分の利得のために問題を利用

していたのではなかろうか・・・というのが、実際の私たちかと思います。

「いや、自分は良くやっている、人から後ろ指を差される事はないんだ、十把一絡げに扱うな」という方もいらっしゃるでしょう。

果たして、本当にそうでしょうか、そう言い切れますか?

世のため、人のためと言いながら、結局は、自分の名誉や利得のために動いていたのが概ねでしょう。

まぁ、ここでは、その事を非難したいのではありませんので、あしからず。

そういう自分であった、問題を解決しようとしている自分そのものが一番の問題であったという所に、目が向けられ、気づか

される事が、私たち自身にとって大事なんだと言いたいのです。

そしてそれは、その時ようやく、「唯除の文」と私たちが関係して来るんだという事でもあるのです。

どの様に、「唯除の文」と私たちが関係してくるのかというと、自分がこの「第十八願文」から除かれる対象であったという

意味で関係してくるのです。

この「唯除の文」というのは、五逆の罪を犯した者や仏法を謗る者は、阿弥陀如来の浄土に生まれる人ではないという事を

意味しております。

普通に考えると、自分は五逆の罪は犯してないし、仏法も謗った事はないから大丈夫だという形で終わってしまいますね。

実はそれこそが、盲点なんですね。

先程申した様に、問題を解決しようとしている自分には全く問題が無いと思ってしまうのと、同じ事な訳です。

罪を犯していないから、法を謗ってもいないから、自分は大丈夫だと思い込んでいる自分そのものが、一番問題な訳です。

人は、縁あらば何時でも何処でも誰でも罪を犯す存在であると仏教は説きます。

けれども、その様な形で、私たちは罪というものを捉えているでしょうか?

罪を犯した人間は、本当にどうしようもない救い難い極悪人だという見方しかないのが本音かと思います。

言うなれば、そういう縁を説く仏教を信じられないんですね、私たちは。

つまり、それは仏法を謗る事に他ならないでしょう。

さらに言えば、その時点で既に、浄土には生まれる事が出来ない、浄土から除かれた人間じゃないですか。

そういう自分であった、自分が問題とならずに過ごしていた自分こそが一番問題であったという事と共に、実は自分は浄土

から除かれる対象であったという事に気づかされるのが大事なのです。

それを気づかせるために、わざわざ、「十八願文」の所に、「唯除の文」が置かれているんでしょうね。

また、そういった自分であったという事に気づかされるという事は、そんな自分でも、余す所無く済い取って下さる阿弥陀如来

が、自分の傍で絶え間なくはたらいて下さっていたんだという事に、それは即ち、「南無阿弥陀仏」の六字の名号が、自分を

助けてくれるためにあったんだという事にも気づかされていく訳です。

だから、そういう自分自身に気づいた人は、「南無阿弥陀仏」という、言ってしまえば、たった六字の名号に歓喜して、

そんな自分を済って下さる阿弥陀如来がおられる浄土にどうしても生まれたいと願ったんですね。

それこそが、信心かと思います。

自分自身という問題が照らし出されて、それにハッと気づかされ、そして、自分を照らし出して下さっていた光の元に、頭が

下がり感謝申し上げる、それが信心を頂く事かと思います。

また、何も光が阿弥陀如来だけではなく、私たちより先んじて、いのち終えられた方、つまりは諸仏となられた方が、常に、

私たちの傍で、私たちを照らして下さっていたんだという事でもあります。

上述した様に、「唯除の文」こそが、私たちそのものであったという事が、今回のお話の内容です。

多少、実際に話したお話と文面に書いてのお話とは、若干異なりますが、概ねそんな所です。

以上です。

おみがき会、並びに法話会にご参加下さいました皆様方、この場を借りまして、感謝申し上げます。

*バタバタしておりまして、肝心のおみがき風景等を写真に撮る事を忘れておりました。
前回も撮れませんでしたので、重ね重ね、申し訳御座いませんでした。
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ところで、12月は、『宗祖親鸞聖人報恩講』が勤まります関係で、聖典を読む会・定例法話会はお休みです。

どうぞ、行事日程のご確認の程、よろしくお願い致します。

続けて、宗祖親鸞聖人報恩講のご案内をさせて頂きます。

12月5日 午後15時より

             宗祖親鸞聖人報恩講・逮夜

○当日は、東武野田線高柳駅からお寺まで送迎を行っております。詳細はお寺までご一報下さい。

12月6日 午後13時より

             宗祖親鸞聖人報恩講・日中

お話 東京宗務主張所所員(北上市通来寺副住職) 清谷真澄氏

○当日は、東武野田線高柳駅からお寺まで送迎を行っております。詳細はお寺までご一報下さい。

どうぞ皆様、友人知人をお誘い合わせの上、ご参詣ご聴聞下さい。